- Part1 -モントレー日系人の歴史 - Part2 -
1920年代は1929年のストックマーケットの大暴落で終わり、1930年代の大恐慌へと移っていきますが、 日系人の漁業を中心にしたモントレーでの活躍は拡大成長を続けていきます。
1930年代には日本人が所有するアバロニ(あわび)採取専用船は10隻を超え、アバロニ加工を中心に関連会社が現在のOld Fisherman's Wharfに栄えました。第二次世界大戦以前のWharfのビジネスの50%以上は日系人が所有し、魚貝類の卸や小売りの大半は日系人が中心でした。魚貝類を扱うレストラン、仲買人、市場はイタリア、ポルトガル、中国、ギリシャ、アイルランドなど様々な人種で構成されていました。加工された魚貝類は鉄道(Southern Pacific Del Monte Express)を使ってサンフランシスコなどに送られ、さらに多くのビジネスを生み出していました。
しかし、日系移民のこの環境は第二次世界大戦で大きく変わることになります。


1942年2月: 行政命令第 9066 (大統領による引き払い命令)
公法第503 (連邦議会行政命令第9066)発令



人間の尊厳が根本から否定されてしまった出来事でした。ただ日系であったため、しかもその半数はアメリカ市民であったのですが、学校をやめビジネスを閉め、強制収容所に送られたのです。1941年12月7日真珠湾攻撃の後は、日系人は出漁を禁止され、1942年2月には日系人はモントレーを追われ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ、ワイオミング、ノースダコタなど僻地の収容所に送られることになります。罪を犯さずしてFBIに連行されたことは耐え難い侮辱であったに違いありません。収容された日系人は西海岸を中心に12万人。収容所からの解放は1944年に始まり、収容所は1945年に閉鎖されます。しかし、ほとんどの日系人は財産やビジネスを失い、特に一世は深い心の傷を負っての再スタートとなります。

アメリカに忠誠を示すため、軍隊に志願した二世がたくさんいます。1943年1月、政府は二世からなる戦闘部隊を発表。日系二世で構成された442nd RCT(Regimental Combat Team)がヨーロッパで活躍し、アメリカ陸軍で最も多く勲章を授けられた部隊となり、日系人の存在を認識させる上で最も重要な出来事であったに違いありません。
16,000の二世兵士の内、 700人が戦死、9,500人がPurple Heartsを受賞しました。442nd RCTの兵士は海外と国内両方の戦いを勝ち取ったといわれています。

1945年に第二次世界大戦が終わり、1952年のMcCarran-Walter Actによって日本人移民も米国市民権を得られるようになります。

1988年のCivil Liberties Actで、アメリカ政府は強制収容所に送られた日系人生存者一人当たりに20,000ドルを賠償し、レーガン大統領が公式に謝罪しました。

現在のアメリカに住む日本人、日系人は約100万人。人種差別や戦争など、長い年月の間に先駆者達の培った努力が今日の日系人の基盤となっています。しかし、一世達の記録は非常に少なく、FBIによる捜査からの疑いを回避するためほとんど消却されてしまったのが主な原因といわれています。


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